アポカリプスホテル考察#2:アポカリプス世界と倫理【ネタバレ】
2025年9月5日(金) 感想・考察
2025春アニメ「アポカリプスホテル」が終わって2ヶ月経ちました。いやー、面白かったです。退廃感と生存感が両立する良質なSF描写と、畳み掛けるようなコメディ展開に、全12話まったく飽きることなく完走しました。可愛らしいキャラデザ、美しい背景、シーンにぴったりハマった音楽など、素晴らしい要素が満載の作品だったと思います。中でもストーリーやキャラクターの緻密な表現が特に素晴らしく、これは考察しがいがありそうだと感じたものです。そういえばちょっと前に「現代はSFが衰退した」的なバズりもあったことだし、いっちょ本気で考察してやるか!となったのが当エントリです。全3回で濃密にお送りしますので、是非お楽しみください。
第2回のテーマは、本作の舞台となる「無人の地球」、アポカリプス世界とその倫理についてです。
はじめに
「アポカリプスホテル」は考察なんかしなくても、頭からっぽで楽しむことができる傑作アニメです。こんな考察を書いたり読んだりするのは、それ自体が「わざわざやってる」もの好き仕草です。「せっかくの名作なのに考察なんかしたら興が削がれる」的なご意見はごもっともだと思います。それを念頭においてお読みいただくか、あるいはお読みいただかないのが良いのかなと。こういう考察が好き~という方にご覧いただければと思います。
また、当エントリにはネタバレが大量に盛り込まれています。まだアニメを見てないよという方は、是非アニメをご覧になってから読んでいただきたいです。こんな良質なSFアニメのネタバレをこんなとこで見ちゃうのは勿体ない!なお、当エントリのコピペ(一部)やスクショをSNSなどに貼り付けても問題ないですが、ネタバレにはそれぞれご配慮いただけると助かります。
リンク
- #1 ヤチヨさんの自我
- #2 アポカリプス世界と倫理 (いまココ)
- #3 ヤチヨさんの生命 (執筆中)
#2 アポカリプス世界と倫理 まえがき
今回は、銀河楼が建っている作中のアポカリプス世界「人類が誰もいない地球」とそこでの倫理について考えていきます。この世界では僕らの現実世界での価値観はまったく通じません。その世界で生きていくということがどういうことなのか、我々の常識を取り払って見ていきたいと思います。
誰もいない地球
アポカリプス世界へようこそ
1話の冒頭で明かされる大厄災。突然変異原物質の作用で維管束植物により広がったウイルスのような最悪の大気汚染で、人類は地球の大気を吸って生きていくことができなくなります。彼らは生きるために新たな環境を求め、宇宙や海底へ次々と避難していきました。その結果、地上は人類(霊長類)が誰一人として生存しない、無人の惑星となりました。
本作「アポカリプスホテル」の舞台はこの無人の地球です。海底シェルターが結局どうなったのかは作中では描かれていませんが、うまくいかなかったのでしょうか。作中では回想シーンを除き、1話のプロローグ後から最終話でトマリ=イオリが帰還するまで、人類は誰一人として登場しませんでした。
ヤチヨ「それでしたら、既に滅んでいます」
ハルマゲ「何?」
ヤチヨ「ここに来るまでに、周囲を見ませんでしたか?」
ハルマゲ「どこも同じなのか?」
ヤチヨ「はい」
終末世界、ポストアポカリプス。
2024年8月発表のティザーPVでも大きく提示されていた、本作のテーマのひとつです。ポストアポカリプスとは「黙示録の後」。つまり文明が滅んだ後、あるいは滅びつつある世界を描いた作品のジャンルのことです。
その範囲は割と幅が広く、「アイアムアヒーロー」「がっこうぐらし!」などのいわゆるゾンビ系や、「北斗の拳」「風の谷のナウシカ」「ヨコハマ買い出し紀行」など、様々な作品が該当するとされます。特に近年は創作のジャンルが幅広くなったため、該当しうる作品はどんどん増えているように思います。
本作「アポカリプスホテル」はその中でもかなりハードな作品といえます。なんせ人類不在。ここまで極まったポストアポカリプス作品はなかなか珍しいです。地球が舞台なのに、ここまで人類が登場しないアニメ作品はあまり思いつきません。他に何かありましたかね?えーと、「直球表題ロボットアニメ」とか?のどかのどか。
「ポストアポカリプス作品」、あるいはもっと単純に「SF作品」では、現代社会との「対比」が作品の骨子となることが多いです。我々の暮らす世界と比べてあまりに高度な文明、あるいは退廃した終末世界、一方で無機質になりすぎた管理社会、もしくは倫理など崩壊した世紀末、ときには目を覆いたくなるような残酷さ、しかしその中で生まれるヒューマニズム。そういった我々の常識と違う環境での「違い」や「共通点」が見所になるんですね。
「人類がいない地球」が大きなテーマとなっている本作でも、そういった注目ポイントがたくさんあります。重要なのは、それが「僕らの暮らす世界とどう違うのか」。これに注意して、アポカリプス世界での暮らしを見ていきましょう。見方がひっくり返ること間違いなしです。
人がいない=社会がない=基準がない
地球に「人類がいない」とはどういうことでしょうか。
まず、人類がいないということは、地球に「社会」がありません。正確には、銀河楼の周りに小さな「社会」はあるのですが、それより大きな枠での社会が一切ないということになります。例えば、法律、経済、倫理。こういった社会の概念が地球上にありません。
法律がないということは、「やってはいけないこと」の定義がないということです。
ヤチヨ「(死体を)隠しましょう」
ポン子「ええっ!?」
不審死した宇宙人の死体を隠しても、罪に問われる法律がありません。捕まえに来る警察も、罪を裁く裁判官も、閉じ込める刑務官もいません。コズミック刑事……のことは後に回すとして、この地球には我々の生活の基本となるルールそのものがないわけです。
ヤチヨ「お客様。お待ち下さい。お会計がまだです」
旅人宇宙人「のーねーま……」
ヤチヨ「お金を、持っていないのですか?」
社会がないということはお金の概念もありません。作中でヤチヨさんは宇宙人に支払いを求めていましたが、当然宇宙人は日本円を払えません。しかし、問題はそこではないんですね。もし代金を受け取ることができたとしても、ホテルが受け取ったお金を使う先がないことが何よりも問題です。経済が意味をなしていないんですね。
作中ではお金はたびたび札束でやり取りされます。絵的には面白いですが、そもそもお金を使う宛がないのだから、1万円も100万円も1億円も本質的に違いがありません。いくらお金を持っていても、何も買うことができないんです。
「社会がない」というのは「基準がない」という言葉に置き換えられます。何をしたら善で何をしたら悪なのか、1万円札で大体どのくらいのものが買えるのか、動物は食べるのに人の生命を奪っていけないのはなぜか。こういった基準を複数の人や種族、国家の間で共有するのが「社会」なんです。
作中のアポカリプス世界では人類の価値観を共有すべき人類自体がいません。なので、何をしても他の誰かの基準に引っかかることもありません。この世界では誰もが自由ですし、もちろん誰も守ってくれません。その行為が良いか悪いかも誰も決めてくれないのです。人がいないというのはそういうことなんですね。
さて、そんな世界にある銀河楼に「悪いこと」を持ち込む宇宙人がやってきます。
やさしき侵略者プロチオーネ一家
銀河楼に2番目にやってきた宇宙人のお客様は、タヌキ星人「プロチオーネ一家」でした。3話のエピソードですが、非常に強烈な話だったので印象に残っている方も多いのではないでしょうか。この話で視聴を切ったみたいな話もちょくちょく耳にしましたね。
争いで自分たちの星を追われた彼らは、安住の星を探して宇宙を旅してきたといいます。その途中で地球人の船を発見し、そこで地球のことを知り、地球目指してやってきたとのことでした。そこまでは良かった。
銀河楼に宿泊したタヌキ星人たちは、次第に好き放題し始めます。ホテルの食料を食い荒らす、ところ構わず穴を開けまくる、ため糞をしまくる、といった破壊的な迷惑行為をした挙げ句、勝手に掃除をしようとしたハエトリロボさんを無力化してしまいます。
これをホテル運営の危機と悟ったヤチヨさんは、タヌキの父親ブンブクを殴り飛ばし、頭から花火を吹き上げながら激昂。さすがのタヌキ星人たちも大人しくなるのでした。めでたしめでたし。
さて、この話をもう少し踏み込んで考えてみましょう。タヌキ星人の迷惑行為は、今の日本におけるインバウンドやオーバーツーリズム問題などと絡めて語られることが多いです。実際そういった迷惑行為を参考に演出されているのは間違いないと思います。この表現でタヌキ星人が嫌いになったといった意見もSNSでよく目にしました。気持ちはわかります。
しかし。タヌキ星人は本当に迷惑行為をしたのでしょうか?
いやいやいやどう見たって迷惑だっただろ!と思うかもしれません。では、迷惑を被ったのは誰でしょうか。それは、銀河楼のスタッフ……、あれ?全員ロボット?じゃあホテルの所有者や責任者……もいない。あれ?別に迷惑を被った人なんて誰もいなかったのでは……?
ちょっと待って!迷惑を被った人がいないから迷惑行為じゃないなんてことはないでしょ!実際ヤチヨさんは迷惑そうだったよ?と言われると、それはその通りな気もします。
こういう場合は相対化して考えるのが良いです。作中では人類も流浪の民ですし、我々がタヌキ星人側の立場であったとして考えてみるのが良さそうです。
我々が安住の星を探して宇宙を飛行中、かつて先住民が暮らしていたものの今は誰も住んでいない星を発見したとします。建物なども残っているかもしれないし、環境として問題ないならこれほど居住に適した星はないでしょう。
そこに、今も稼働しているロボットが運営しているホテルを見つけたら、あなたならどうしますか?あなたは良き客でいられますか?
現実的に考えると、我々がそういう状況にあったとしたら、ホテルが営業中と考えることすらしません。有無を言わず支配し、利用できるものは全て利用して生き延びようとするはずです。我々は人類なのでため糞こそしませんが、必要なら壁に穴も開けるでしょうし、食料があれば奪うと思います。そこに反抗するロボットがいたら無力化もするでしょう。生きている機能は使うかもしれませんが、無人のホテル運営のことなど露ほども考えません。
結局、我々も好き放題するタヌキ星人と同じなんです。それどころか、人類は一発殴られたくらいで引き下がりません。おそらくロボットを破壊してでもホテルを接収し、浄水器を確保するでしょう。タヌキ星人の行為を迷惑だとするなら、「我々よりタヌキ星人の方がよっぽどマシ」まで全然あるんです。
結果的に、地球に定住する唯一の知的生命体となったタヌキ星人たちは、平和裏に地球の征服に成功したとも言えます。彼らは問題も起こしましたが、地球人としての生活を送ることでホテルとの共存を図った、実は心優しい宇宙人なんです。
僕らは社会に生かされている
なんと、あの忌々しい迷惑タヌキ星人が、我々人類よりよっぽどマシなどという話になってしまいました。どうしてこんなことになってしまうのか。
僕らが普段、破壊活動や迷惑行為をしないのはなぜでしょうか。警察に捕まりたくないから?やったらやり返されるから?そもそもやってはいけないことだから?いろいろ理由はありますが、アポカリプス世界を前にすると、答えはたった一言です。
僕らのそばには社会があるからです。
僕らは社会のルールを守らないといけないのと同時に、社会のルールに守られています。社会のルールを守らないと他の誰かの安全や安心を脅かすから、ルールを守らない人たちのことを嫌悪するんですよね。
だから僕らの目には、タヌキ星人が「ルールを守らないクズ」に見えてしまいます。だけど、あの世界には社会がなく、決まったルールがありません。あのタイミングの地球で唯一の知的生命体だったタヌキ星人が、自分たちの習性に従って行動したところで、何も問題はなかったんです。この僕らの世界とは違うアポカリプス世界を描いた見え方の違いこそが、この作品の醍醐味だと自分は考えます。
ここで、ヤチヨさんに怒られたタヌキ星人たちはなぜ、銀河楼の「良き客」となったのかを考えてみたいと思います。
真面目に考えるのであれば、当初5匹しかいなかったタヌキ星人が「生存」に特化した戦略をとる上で、銀河楼のホスピタリティ(おもてなし)を最大限活用するのが最も有効だったのだと考えられます。実質タダで泊まることができ、食事はアルコール付きで提供され、外敵からもある程度守ってくれる。これほどの施設を活用しない手はありません。元来臆病な性格な上、子供を含むたった5匹しかいないわけですから、ロボットを最大限活用したほうが生存に有利だと考えたのでしょう。
また、ポン子がヤチヨさんに懐いたことも大きいのだと考えられます。ポン子がホテル運営に興味をもったことで、子供の自立という面でも良い環境が整ったといえます。
これらをまとめると、タヌキ星人は結局、銀河楼という小さな「社会」に適応したってことなんですよね。これ、我々人類にはなかなか真似できないことだと思います。彼らは本当に凄いです。
人類もタヌキ星人も、僕らは社会によって生かされています。社会のルールを守ることで社会の中で暮らし、社会によって守られることで生きていくことができます。本稿の後半では、そんなルールのひとつ「倫理」について深く考えていきたいと思います。
アポカリプス世界の倫理
アポカリプス世界の倫理を考える
本作には「社会」が存在しません。社会が存在しないということは、アレです。サバンナです。「お前それサバンナでも同じこと言えんの?」ネットミームにもなってるやつですね。
「アポカリプスホテル」の世界では生活に保証がありません。巨大宇宙生物に襲われようが、ホテルの部屋で突然死しようが、ルールや警察や軍隊が守ってくれたりしません。たまたま地球に超強い凶悪な宇宙人が居て、そいつが気まぐれで守ってくれたりすることはあるかもしれませんが、それも含めて全てがなすがままです。
こういう世界では「力こそが全て」とも言えますし、だからこそ逆に「愛や絆で結び合う力がより重要」とも言えます。そもそも僕らが「社会」と呼ぶものは、弱肉強食な世界から脱却し、互いに助け合って共存するしくみでもあります。その社会の役割を自分たちで賄わないと、この過酷な世界を生き抜いていけません。
ここでは、こういった世界での「倫理」を考えてみたいと思います。倫理は社会を円滑に回すのに必要な概念です。規範や秩序の前提となり、善悪の判断の基準にもなります。しかし、本作のアポカリプス世界には「社会」がありません。そんな世界において倫理はどのように考えられるのでしょうか。
ちょっと地味なテーマですが、特に、本作の9話や10話を語るうえでは避けては通れないものです。その頃のヤチヨさんは感情を知覚できる「後期ヤチヨさん」ですから、そんな彼女が銀河楼の中でどのような倫理感で活躍したのかを考えていきます。
さっそく、あの「不謹慎」な披露宴から見ていきましょう。
「不謹慎」な結婚葬儀披露宴
宇宙に取り残されたヤチヨさんが復帰してしばらく経ち、大人になったポン子はポンスティンと結婚することを決めます。一旦はヤチヨさんやマミに反対されますが、ヤチヨさんの暴力等で無事?和解、銀河楼で挙式することが決まりました。数百年ぶりの銀河楼でのブライダル。ホテルのロボたちもどこか浮かれているように見えます。
しかし、式を目前にして体調の思わしくなかったムジナ婆ちゃんが逝去してしまいます。悲しみに暮れるプロチオーネ一家。ポン子は結婚式の中止をヤチヨさんに伝えますが、事前にムジナからメッセージを受け取っていたヤチヨさんは、ポン子たちの門出と共にムジナの旅立ちもお祝いする披露宴を提案するのでした。
本作で最もハートフルな話数がどれかを聞かれたら、この9話を挙げる人が多いのではないでしょうか。ポン子たちの結婚式とムジナのお葬式を同時に行う、結婚葬儀披露宴が開催されます。今まで見たことのないとても不思議で不謹慎な披露宴でありながら、とても温かく心地よい物語でした。僕はこの回が大好きです。
この結婚葬儀披露宴ですが、SNSなどで「人類が不在だから許される不謹慎」という論調を見かけることがありました。しかし、それは必ずしも正しくないと自分は考えます。
ヤチヨ「続いて、喪主のご挨拶です」
ブンブク「えー皆様、本日は……」
ブンブク「ああ~!もう、感情が迷子で……ああああ!本日は……!」
実はタヌキ星人たちもこの式に困惑しているんですよね。
更に、友人代表によるマジックでは――
泡を吹いて気絶しています。ポン子も披露宴を中止にしようとしてたわけですし、本来はタヌキ星人にとっても結婚式とお葬式は相いれないものだったんです。不謹慎は地球だけのものではなく、宇宙を超えて共通の概念でした。
では、この不謹慎披露宴は誰によって企画されたのか。そう、もちろんこの人です。
ヤチヨ「乾杯!そして献杯!」
こんな不謹慎な式を開催してしまうのは「生命体としての常識のないロボットの限界」というのも面白いんですが、ムジナ婆ちゃんから受け取ったメッセージを元に、一番良い形を模索したのだと考えるのが自分は好きです。ヤチヨさんは自分のAIの思うままに振る舞う能力を獲得したので、前例のないような披露宴も開催できるのです。
「不謹慎」というのは人や宇宙人などの知的生命体、あるいは感情を発現したロボットなどが感じるものです。知的生命体が誰もいないサバンナのど真ん中には「不謹慎」という概念はありません。どんなにムゴい現実や命をかけた騙し合いも、それを感じる人がいない環境では不謹慎にはなり得ないんですよね。
銀河楼のある地球には他の生命体がいませんから、どんなに不謹慎っぽい式を挙げてもSNSで炎上することはありません。しかし、披露宴の参加者という狭い範囲では不謹慎に感じられることはあるでしょう。前述のようにタヌキ星人の困惑はあったようです。結果的にいい式になったから良かったですが、場合によってはヤチヨさんが殴り飛ばされかねない式ではあったのかもしれません。
ここで考えたいのは、これがアニメ作品であるということです。アニメには視聴者という外の存在がいます。僕らは社会に暮らす「不謹慎さを感じられる」人類で、アニメの中はアポカリプス世界です。さて、テレビの前の僕らはその世界に不謹慎さを感じるのか、感じるべきなのか。アニメの中の世界はサバンナ扱いなのか、そうではないのか。
こういった感じ方にたぶん正解はないと思うんです。どう感じても良いとは思うんですが、しかしこうして考えてみると面白いですよね。僕らが感じる感情移入とはなんなのか、「不謹慎」という感情は一体なんなのか。改めて考え直す機会になる気がします。
こんな考え方ができるのも、本作がアポカリプス世界でのドラマだからです。あちらの世界はこちらと根本から違うので、そのまま感情移入をすることが適切とは言い難いです。僕らは僕らの世界で、彼らは彼らの世界で生きています。こういった世界の「対比」が求められるところに、本作のSFの醍醐味があるんだと、自分は強く思うのです。
銀河楼にサスペンスなし
不謹慎といえば9話に続いて10話も外せない話題です。なんかとんでもない話でした。
ある日銀河楼に温和宇宙人がやってきます。ちょっと怪しい人物だと感じつつもポン子は普段通りの接客を行いますが、なんと翌朝、温和宇宙人は部屋のベッドの上で変死していたのでした。
ポン子「し、死んでる……!」
ヤチヨ「殺人事件が起こったホテルは、客足が遠のいてしまうと言われています」
ヤチヨ「隠しましょう」
死体を隠そうとするヤチヨさん。そこへやってきたコズミック刑事(強面宇宙人)。どこかよそよそしい銀河楼スタッフ達は案の定怪しまれてしまいます。はたして死体を隠し通すことはできるのか?
強面宇宙人「オハアッ!」
などとやっていたら、なぜか強面宇宙人も突然死します。え、なんで?
ヤチヨ「隠しましょう」
最終的に2人ともムジナの墓の隣に埋められてしまい、謎の怪死事件は幕を閉じるのでした。
いやなんだこれ?
本作で一番の問題作と言われる10話。宇宙人2人がなぜ死んだのかが全く明かされず、視聴者は本気でモヤモヤします。10話の面白さが分からないという意見や、10話以外は名作などといった感想も目にしました。うん、分からんでもない。
宇宙人2人の死因については本当に明かされていません。7月のスタッフトークショーでは「設定はちゃんとあるけども、墓まで持っていく」と話していました。いや教えてよ!!!
SNSでもいろいろな意見が出ていました。トマリさんと同じ地球の大気に対するアレルギー説もありましたが、特に根強いのはタヌキアレルギー説でしょうか。2人ともタマ子に抱きつかれた後に亡くなっていることと、コズミック刑事の方は抱きつかれた直後から首に湿疹のようなものができ、痒そうにしている描写があるからです。しかし確証と言える説ではないので、この話はここまで。最終的には謎のままです。
ただ、この回が何だったのかはある程度推察できます。それはやはり、アポカリプス世界ならではの事情です。
本編では◯曜サスペンスのような映画のシーンがあります。そこではまさに犯人を追い詰める刑事の姿が描かれていました。ところで、刑事はなぜ犯人を追いかけるのでしょうか?刑事はそれが仕事だから?根本的な理由としては、犯罪は社会的に許されないからです。犯罪は社会の安定性を揺るがす行為だから、警察に捕まるんですね。
しかし、このアポカリプス世界には社会そのものがありません。法律も罪もありません。コズミック刑事は警察っぽい人ではありますが、それはあくまで外の宇宙の話。地球でそれを言ったところで、銀河楼のメンバーには関係がないんですよね。本編では死体遺棄の懲役の話をしていましたが、確かに適用するとしたら日本の法律のほうがまだ適切でしょう。
ポン子「ねえヤチヨちゃん。もし勝てなかったらどれくらいの罪かな」
ヤチヨ「日本の法律では、死体遺棄は懲役3年以下です」
ポン子「3年、3年か……」
ポン子「そう考えると、3年ってちょろいね!」
ヤチヨ「ホントですね!」
そんなこの世界ではサスペンスのお約束が通じないのです。社会がないから犯罪や罪という概念が意味をなしていません。社会的な責任という概念もなくなってしまうので、なぜ死んだのかという理由付けも意味がなくなるのだと解釈できます。ならば、とにかくなかったことにしてしまうのが一番てっとり早い。これはそういう表現だったと思うんですね。
いやいやいや、作中はそれでいいかもしれんけど、視聴者には答えを教えてくれよ。そう感じる向きもあると思います。
しかしその社会的な責任があるのも、やはり我々視聴者の世界の話。本作においてそれはテレビの前にしかないものです。それはこの外の世界には持ち出しませんよと、そういうメッセージだったんじゃないでしょうか。
そう、答えはタイトルに書かれていました。「アポカリプスホテル」は、アポカリプス世界のホテルのお話。サスペンスはこの世界で成立しないものなのです。
いや、自分にもよく分かんないんだけどねw
ヒーローズ、ゲットセット!
「犯罪や罪という概念が意味をなさない」という話をしましたが、しかしそれと「善悪」はまた別の概念かもしれません。悪いことをしても捕まらないアポカリプス世界であっても、良いことは良い、悪いことは悪いという観点は成立しうる可能性があります。
そこで考えていきたいのは6話です。「ハルマゲ」こと凶悪宇宙人が銀河楼にやってきます。
ハルマゲ「我は、この星の文明を滅ぼしに来た者」
フグリ「えっ!」
ポン子「ハルマゲドンだ!」
約100年間も居座ったプロチオーネ一家が銀河楼をチェックアウトした日、地球に凶悪宇宙人が飛来します。彼は地球での破壊活動を行おうとしますが、彼をも客として受け入れるヤチヨさんに興味をもちます。
銀河楼の客となったハルマゲは文明の儚さ・愚かさをヤチヨさんに理解させようと行動しますが、ヤチヨさんはホテル以外のことに関心を示しません。ホテル運営の邪魔をするなと逆に怒られてしまいました。
そんな折、地球に彼を倒そうと4人組の正義のヒーローのような宇宙人が現れます。お台場エリアで激しく戦闘するハルマゲとヒーローズ。球体展望台を投げつけられ一瞬の隙を見せたハルマゲに、ヒーローの攻撃が放たれます。その方向には銀河楼が――
ハルマゲ「にゃぷっ」
避けることもできたであろうハルマゲ。しかし彼はその攻撃を身体で受け止めるのでした。
この回には様々な要素があります。ハルマゲが銀河楼とヤチヨさんに何を見たのか。彼はなぜ数多の文明を滅ぼし、なぜ地球を見逃して去ったのか。そしてハルマゲとヤチヨさんの関係。とても興味深いテーマですが、ここでは置いておきます。
ハルマゲは数多の文明を破壊してきた恐怖の存在です。当然、多くの生命を奪ってきたのでしょうし、そこには多くの悲劇もあったのだと思われます。一般的な価値観で彼を判断するのなら、「悪」であると感じる向きが強いのだろうと思います。
一方、ヒーローズはいかにもアメリカンなヒーローの風貌をしています。彼らが戦う理由は、文明の破壊をし続けるハルマゲを倒すことであり、これだけ見るとまさに「正義」。分かりやすく「善」側の存在として描かれています。
しかし、ここでアニメ公式サイトのキャラクター紹介を見てみます。
凶悪宇宙人を追って地球にきた、宇宙を股にかける正義のヒーロー4人組。ヒーロー宇宙人自体はもっといるのだが、その時々によって編成を変えているらしい。正義を背負い続けてきたが故、その行為が招く結果を軽視してしまうこともあるようだ。
(アポカリプスホテルアニメ公式サイトより)
ちょっと不穏なことが書かれています。実際、アニメ本編では彼らの攻撃で銀河楼に被害が及ぶところでしたし、それを救ったのはハルマゲでした。「善」と「悪」はどちらにもそれぞれ存在し、完全に分離して考えられる要素ではありません。視聴者は「ハルマゲいい奴じゃん」と感じたと思いますし、ヒーローズからは「行き過ぎた正義」のような印象を受けます。実際、そういう描写だったと思います。
キャプテン「今日こそ散っていった者たちの仇を討つ!」
ドクター「宇宙の厄災と呼ばれる貴様を倒し、私も仇を討つ!」
マイティ「マイティ!!」
とはいえ、ハルマゲが大量殺戮犯であることには違いなく、おそらくヒーローズも彼の被害を受けた者たちだと考えられます。なぜか地球にいるタヌキ星人はともかく、銀河楼を含めて地球は本来無人の惑星で、そこでハルマゲと戦おうとした彼らの行動がそれほどおかしいわけでもありません。ハルマゲの被害を抑えるという意味ではベストを尽くしているとすら言えます。
結局のところ、善や悪なんて、加害するもの・される者というそれぞれの立場で変わってしまうものなんですよね。我々視聴者がハルマゲに感情移入してヒーローズに肩入れできないのは、なんだかんだ地球サイド、銀河楼サイドでアニメを見てしまっているからだと思われます。3話のタヌキ星人に嫌悪感を抱くのも恐らく同じで、僕らは理不尽な被害を受ける人に感情移入して、それを与える者がキライになっちゃうんです。
このように、善悪の概念はアポカリプス世界にもあります。しかしそれは絶対的なものではなく、誰かと誰かの間に生まれる関係性です。視聴者をも巻き込んで、結局「自分たち」あるいは「自分たちが理解しやすい立場」にとって善か悪かという相対的なものとして存在しています。
では、次はその線引きをもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
鳥貧民とヌデル料理とタヌキ鍋
本作では宇宙生物のヌデル・メリッサ・スコロペンドラ(以下ヌデル)が登場します。ヌデルの驚異的な破壊力と繁殖力は数多の星を滅ぼしたほどで、その名は宇宙に広く知れ渡っているようです。宇宙に避難した人類ですらその名を知っていました。
4話でヤチヨさんとポン子もヌデルに襲われます。充電不足で不調だったヤチヨさんの影響で危機に陥りますが、ポン子の生命を賭けた攻防とヤチヨさんのナイスフィッシングでなんとか始末できたのでした。
倒したヌデルの巨体は、銀河楼で食材として利用されることになります。肉食動物っぽく見えますが、どうやらヌデルは美味しくいただくことができるようです。ヌデルと全力で戦ったポン子は、「生命をいただくこと」の尊さを理解するのでした。
その後、6話ではハルマゲが地球にいた全てのヌデルを駆除し、銀河楼のヌデル食材事情が更に改善します。また、12話ではヌデルの幼体の養殖に成功していることが示されます。幼体の提供は誰がしたんですかね?もしかしてハルマゲ?
ヤチヨ「最高級ヌデルのハンブルクステーキでございます」
トマリ「ヌデルって、あのヌデル!?」
ヤチヨ「はい。お客様から幼体をいただき、養殖に成功しました。ごゆっくりお召し上がりください」
さて、ヌデルはどういった生物なのでしょうか。作中の描写を見る限りでは、知的生命体ではなさそうです。我々にとっての動物に近い生物で、それを獲って食べたり養殖したりすることに対して、疑問をもつことはあまり多くないと思います。作中でも食材用のニワトリが飼われている描写がありました。これと同じですね。
ヤチヨ「名前があるんですか?」
ポン子「うん。”もも”でしょ、”はつ”に”つくね”、”ぼんじり”。この子が”鳥貧民”」
ポン子「どうせ食べるんだし、名前つけなくていっか」
では、3話のタヌキ星人はどうでしょうか
ブンブク「鍋にだけはしないでください!」
ヤチヨ「食べたりしません!」
これはコメディ描写かもしれませんが、ブンブクは自分たち自身が食材になってしまうことを危惧したセリフを発しています。さすがにタヌキ星人同士で食べ合うことはないと思いますが、宇宙に進出し異星人との関係ができてくると、自分たちの種別を捕食する生物が現れることは考えられるのかもしれません。広い範疇で言うのなら、ヌデルもそこに含まれるとも言えます。
食べてもいい生物、食べてはいけない生物。この線引きは我々の世界では単純に考えられています。なお、話を簡単にするため、ここでは少なくとも日本に限った生命観で話をします。
- 人類は殺されてはいけない。人類にも動物にも食べられないし殺されない
- 人類は他の動物を食べても良い。ただしむやみな殺生をしていいわけではない
- 動物同士の捕食は人類のコントロール外。基本的にあるがままに任せる
「万物の霊長」たる人類は特別扱いされています。なぜ特別扱いされているのか?それはそれを決めたのが我々人類自身だからです。人類は地球上で唯一の知的生命体です。知能の高い動物は他にもいますが、文明レベルを構築できる生命体は人類だけです。
しかし、人類が宇宙に進出して他の生命体と接するようになると話が変わってきます。万物の霊長は一種ではなくなってしまうんですね。そうなってしまったとき、他の宇宙人と人類は、どこまで生命が保証されるのでしょうか。人権の範囲は?地球人側の意識は地球上で統一できたとしても、相手側はそれに合わせてくれるものでしょうか?
例えば、人類より遥かに高度な文明を築いた生命体が現れ、地球人類を捕食したり奴隷として使役したりすることは有り得るのかもしれません。もちろん人類はそれに抗おうとするでしょう。これは「インデペンデンス・デイ」などの異星人侵略作品などでもよく描かれる構図です。生き残りを賭けた戦いですから、お互いのことなんて考える余裕はおそらくありません。
この話、前節の善悪の話と同じです。結局、人類やタヌキ星人が、それぞれの立場での視点でしか生命の優先順位のルールを定めることはできません。倫理というのは主体的なものなんですね。それぞれの種が自分たちの生存のために、それぞれの生物の枠を当てはめています。そこにある善悪は相対的なものであって、絶対的な正解というものは存在しません。
ポン子「ここザギンではね、目の前の命をいただくことに感謝と敬意を込めて、前足をこうやって、”いただきます”、”ごちそうさま”って言うんだよ」
逆に、そうであるからこそ、生命が尊いものであることを忘れてはいけないのかもしれません。それが宇宙共通の価値観であれば、全知的生命体が幸福になれる明るい未来を夢見ることもできるのではないでしょうか。次は宇宙での社会の繋がりについて考えてみたいと思います。
アポカリプスホテルのおわり
アポカリプスホテルの舞台は人類がいない地球です。人類がいない地球には社会がありません。社会がない世界には法律も罪もなく、誰かが守ってくれることもありません。全てがあるがままの世界です。
しかしこの作品では、我々地球人類の預かり知らぬところで、宇宙人同士に何らかの交流があることが仄めかされています。
ヤチヨ「ポン子さん(ヌデルを)ご存知なんですね」
ポン子「名前くらいしか知らないけどね。ヌデルが繁殖した星は大抵滅んじゃうから」
ヤチヨ「当ホテルはどのようにお知りになりましたか?」
触手宇宙人「友人から聞いた」
触手宇宙人「あいつ言ってたよ。少々風変わりだが、ここはいいホテルだって」
強面宇宙人「俺はこういう者だ。コズミック刑事、そう言えばどんな田舎もんでも分かるだろ?」
言語にも宇宙共通語というものがあるようですし、宇宙人同士に交流があることは間違いないようです。また、コズミック刑事の存在からも、そこにある程度の規律が存在することが伺えます。つまり、本作の宇宙には社会が存在します。
本作「アポカリプスホテル」はアポカリプス世界である所の「人類がいない地球」を舞台とする物語ですが、宇宙人が登場し、その中で経営していくことによって、新たな社会に組み込まれていく話でもあると言えます。この物語はアポカリプスなホテルがアポカリプス世界から脱するお話でもあるんですね。
そうなってくると、いろいろな前提が覆ります。
まず、決済システムが成立していなかった銀河楼は、いずれ宇宙経済の中に溶け込んでいく可能性があります。12話でヌデルの幼体を提供されたエピソードがありましたが、そこから発展して銀河楼と宇宙経済の間で、相互取引が行われる日がくるのかもしれません。
また、善悪や人権の話にもルールが生まれそうです。コズミック刑事は可哀想にも埋められて終わってしまいましたが、銀河楼が宇宙社会の中に組み込まれるのであれば、ポン子たちも法治下に含まれる可能性が出てきます。そうなると10話の死体遺棄で二人は何らかの罪に問われ、懲役刑に処されるかもしれません。そうなると3年どころでは済まなさそうですね。宇宙社会の懲役は100年くらいはあるのでしょうか。人類にはキツすぎます。
あるいは銀河楼の特殊性から、なんらかの特区として保護されるような展開もありそうです。原住民が放棄した星で奇跡的に生き残ったホテル銀河楼。遺産的価値が大きそうなので、そのままの形で残されるのかもしれません。実はヤチヨさんが気づいていないだけで、12話では既にそうなってたりして。妄想が捗ります。例えば――
ヤチヨさんが地上にいなかった20年の間に、実はポン子が宇宙社会の保護下に加わる取引を行っていた。それにより銀河楼は宇宙に広く知られるようになり、来客数が激増した。そうなると人類の帰還は宇宙社会的にも都合が悪くなるので、人類が帰ることができないように、人類だけに作用する強力なアレルギー成分を大気に撒いておいた。そしてそれを検出できないよう、環境チェックロボにも細工を施していた――
……なんてのはさすがに冗談ですが、アポカリプス世界でない社会が存在する前提だと、だいぶ話の筋が変わってきます。サスペンス展開はアポカリプス世界で成立せず、社会の責任の中で生まれるってのはこういうことでもあるんですよね。
これまで考えてきたアポカリプス世界の倫理観の問題は、宇宙社会の中では解決に向かう可能性があります。万物の霊長同士の交流が生まれ、互いに尊重する社会が生まれる、のかもしれません。もっとも、それがどれだけ難しいかは、宇宙船地球号の乗組員である我々のよく知るところでもあります。令和になっても戦争が終わんないんですね。やだやだ。
倫理とは、生命の尊重でもあります。互いの生命と尊厳を認め合うことで、共存して生きていくことができるようになります。それが社会であって、アポカリプスではない世界なんです。そういった宇宙社会は本作ではほとんど描かれていないのに、どこかに存在を匂わせてきます。これもアポカリプス世界を描いた作品だからこそ強調されるテーマなのかもしれません。これぞ「対比」の描写、実にSFしていると思います。
ところで。
本作の主人公は銀河楼のホテリエ、ヤチヨさんです。ヤチヨさんは生命体ではなく、ロボットです。知的生命体ではありません。彼女ははたして社会の一員と数えられるのでしょうか?本考察の第3回は「ヤチヨさんの生命」について深く考えていきたいと思います。
まとめ:旅人宇宙人は何が凄かったのか
今回見てきたように、銀河楼がある地球には社会がありません。社会のない世界では、我々が普段生活している世界とは常識が全く異なることが分かりました。あの世界での我々はタヌキ星人以下のモラルに成り下がってしまいます。社会があることのありがたみと、その中でルールを守って生活することの大切さが身にしみます。
また、この世界の倫理について考えてみると、社会がないことによる倫理基準の喪失と、複数の知的生命体が存在することでの我々が体験したことのない倫理感のあり方が問われることになりました。善や悪といった概念もそれぞれの立場で考え方が異なり、それを統合するには宇宙規模での新たな社会が必要となります。
「アポカリプスホテル」であるところの銀河楼が今後どのような歴史を刻んでいくのか。アポカリプス世界は終わりを迎え、宇宙社会に溶け込んでいくのであれば、地球はますます人類の居住地から離れていくのかもしれません。寂しさを覚える一方で、宇宙に進出した人類を応援したくもなります。頑張れ人類。生きてくれ。
さて、ここまで考えたところで、このアニメで最も素敵な登場人物に思いを馳せてみましょう。
それは最初の宇宙人、旅人宇宙人さんです。ノージュージャーマーさんなのかもしれないですが、結局それが名前なのかどうかも分かりませんでした。「のーねーま」はなんとなく「NO MONEY」っぽかったですけども。
彼の功績というと、12話で明らかになった環境の浄化が挙げられます。彼が地球に置いていった光る植物のようなものは大繁殖し、地球環境は元の状態に戻ることとなりました。結果的に人類は帰還できなかったのですが、彼の行動は後の人類にとっても非常に有意義な成果があったと言えるでしょう。
しかし、ここで取り上げたいのはそこではありません。
彼が銀河楼に客として宿泊したこと。そのこと自体です。
知的生命体が見当たらない荒廃した星で、ロボットだらけの不自然に営業しているホテル。彼が状況をどこまで理解していたかは分かりませんが、自分が彼の立場だったらなかなか客として振る舞うことはできなかったと思います。まずは警戒すると思いますし、なんなら最初から制圧を考えるような気がします。タヌキ星人の宿泊動機も結局はそうだったと言えますね。
結果的に、彼が宿泊したことがクチコミで触手宇宙人の訪問に繋がっており、その後の来客数にも大きく影響していそうに感じられます。もちろんタヌキ星人の貢献も大きいのですが、彼の功績がなければ銀河楼はタヌキ星人と暇を潰すだけの未来だったかもしれません。
彼になぜそのような行動ができたのか。タヌキ星人は生活の後ろ盾がない状態でしたが、どうやら彼は宇宙社会の中である程度の立場がありそうな存在でした。恐らく何らかの研究や調査で地球に立ち寄ったというところなのでしょう。つまり、人生や生活に余裕があったことが伺えます。ああ見えて、実は安全を保証する奥の手もあったのかもしれません。
そうなると結局、地球の環境を救ったのは、より大きな安定した社会の余裕ってことになるんですよね。これ、我々の現実でも思い当たるケースがよくある、学びのある話だなと思います。
こういう、SFの「現実世界との対比」って本当に面白いなと感じます。
というところで、第2回は終わりとなります。次回の考察が最終回、「ヤチヨさんの生命」について考えます。
リンク
- #1 ヤチヨさんの自我
- #2 アポカリプス世界と倫理 (いまココ)
- #3 ヤチヨさんの生命 (執筆中)